シングル/関西単身けん

シングルと孤独をめぐる断章」(1993年、「シングルズ・ネット」vol.14)

1.シングルは孤独か?

人は往々にして、「シングル」と「孤独」とを直線的に結びつけたがる。

世間の人たちが男の一人暮らしに向かって投げかける、まず最初の言葉が、「一人だとお困りでしょう、ご不自由でしょう」ということは、すでに書いた通りだが、男女を問わず、シングルに向かって投げかける、もう一つの「定型質問」が、「一人だとお寂しいでしょう」というものである。

たしかに、では、「シングルは孤独ではないのか? 寂しくはないのか?」と問われれば、「そんなことはない」と答えるしかない。でも、それは、「シングルだから孤独」というのではなく、「(シングルでない人と同じくらいに)シングル孤独」というほどの意味合いでしかない。

シングルであろうとなかろうと、人は皆、もともと孤独な存在なのである。別の言い方をすれば、孤独というのは、本来、他人によっては埋められることのない感情なのである。

2.気楽で、気まま。なのに……

私の手元に一枚の切り抜きがある。1991年11月5日付の朝日新聞夕刊に掲載された「親の気遣い ―『一人が気まま』というが……」と題された随想記事である。かいつまんで紹介してみよう。

まず、最初に引用されるのが、山田洋次監督の映画「息子」に出てくる「岩手県の山村で一人暮らしの父親」の言葉である。東京に住む長男が、その父親を引き取って一緒に暮らそうと言うが、父親は「長男の嫁」に対して、次のように断りの言葉を言う。

「いや、気持ちはありがたいんだども、俺、岩手の家で暮らすのが一番気楽で―気にしないで下さい。年寄りのわがままだと思って」「俺のことだったら心配することねんだ。これまで長い間生きてきたんだから、死んだからって三日や四日見つからなくても、かまわねえ」

次に、「兵庫県北部の過疎の町で取材した独り暮らしのおばあさん(72)」の言葉が引用される。「約20年前に夫を亡くし、都会に住む長男と長女は年に一回しか帰ってこない」というこの人は、次のように言う。「一人やから、だれにも気兼ねなく、気ままに暮らせる。死ぬ時はころっと死ねたらいいと思います」。

これらの言葉の引用に続けて、筆者は言う。

「『死ぬ時はころっと死ねたらいい』というおばあさんと、『一人で死んでも仕方ねえって思ってんだ』という『息子』の父親。二人の気持ちは同じだ。できるなら子どもと一緒に暮らしたいに違いない。しかし、子どもに迷惑をかけたくない。どちらも子どもを思いやり、精いっぱい気をつかって言ったのではないか。たとえ本心であれ、子への気遣いであれ、二人にそう言わせることが悲しく、やり切れない。」

3.大きなお世話

私は、この記事を読んだ時、無性に腹が立った。そして、実にイヤラシイ文章だと思った。
まず、どこに腹が立ったかというと、せっかく「息子」の父親が、「岩手の家で暮らすのが一番気楽で」「心配することねんだ」と言い、兵庫県のおばあさんが「だれにも気兼ねなく、気ままに暮らせる」と言っているのに、それを「できるなら子どもと一緒に暮らしたいに違いない」と決めつけているところである。

人の気持ちを、勝手に、自分の都合のいいようにねじ曲げて解釈するな、と言いたい。「大きなお世話」というものである。

次に、何がイヤラシイかと言えば、「二人にそう言わせることが、悲しく、やり切れない」と大仰に嘆いてみせるところである。

そういえば、思い出すことがある。もう10年ほど前のことになるだろうか。「ひとり歩きの会」だったか、「それいゆ」だったかの例会での、30代の女性参加者の発言である。

都会に住んでいるその女性には、兵庫県の過疎の村に一人で暮らしているおばあさんがいるのだが、周囲の人たちの慫慂もあって、そのおばあさんを引き取って一緒に住むべく打診に行ったところ、おばあさんは、「一人でのんびり、気ままに暮らしているので、今さら都会で住む気はない」と言う。そこで、その女性は、「こんなところで、一人で暮らしてて、寂しくはないの?」と聞くのだが、おばあさんは「寂しくない」と言う。

その女性が、さらに続けて言ったひとことが、私には一つの驚きとして、今も心に残っている。その女性は、「どうして寂しくないの?」と聞いた、というのである。それに対しておばあさんがどう答えたかは、今は思い出せないのだが、それはどうでもいい。問題なのは、「寂しくはない」と言うおばあさんに対して、「どうして寂しくないの?」と尋ねる人の心のあり様である。

4、「家族一緒が幸せ」という強迫観念

ここには、先に紹介した朝日新聞の記者と全く同一な発想、考え方がある。すなわち、「一人暮らしは孤独で寂しい」、「寂しくないはずがない」、「『寂しくない』と言うのはウソである、無理をしている、自分を偽っている」という決めつけ、思い込みである。

ちなみに、「シングルズ・ネット」11号にも、大東市の「明社協」の市民講座で話をした朝倉さんに対して、42歳の主婦が、「シングルのほうがいいと強調しているが、本心は寂しいのでは」(下線引用者)という意見を寄せていることが紹介されている。

このような世間一般の人たちの「シングル=孤独・寂しい」という決めつけ・思い込みが、一体、どこから来るのかというと、それは、「人は家族と一緒こそが幸せ」という思い込みと、ちょうど表裏一体の関係となっているのである。

このような「家族幻想」が、ある種の強迫観念となって、シングルに対する社会的抑圧として働くことを、以上のエピソードから如実にうかがい知ることができる。

繰り返して言うが、人は、「シングルだから孤独」なのでは、決してない。家族と一緒であろうとなかろうと、結婚していようといまいと、孤独というのは、全ての人に等し並みに訪れる感情であって、要は、各人一人一人が、それとどう向き合っていくかだけが問題なのである。

そういう意味で言えば、かえってシングルのほうが孤独と向き合うチャンスに、より多く恵まれ、「家族幻想」に浸っている人たちは、真に孤独と向き合う時を先延ばしにしているだけにすぎない、ということもできよう。

5、人はなぜ孤独なのか

人間が、なぜ、孤独という感情を持つのか、すなわち、孤独という感情はどこからやってくるのかというと、それは、おそらく、人間が死というものを自覚することのできる動物であるというところに理由があるのだと、私は思う。

今、生きて、喜び、悲しんでいる自分が、ある日、突然、消えて無くなる。有から無への、決して逆戻りすることのできない移行。そういったものである死に対する潜在的な恐れが、孤独という感情の根源にあるのだと思う。すなわち、孤独とは、自らの生の有限性を自覚するところから発生する感情である、と言い換えてもいい。

それはさておき、一般的に言って、人は、次のような状態の時、孤独な感情にみまわれる。

@死別・離別などによって、近親の人を失った時(あるいは、失うかも知れないと思い始めた時)。

A「ひとりぼっちである」と感じる時。

B死の訪れを自覚する時。

ところで、以上の三つに共通するのは、「(人間)関係の、もしくは、(人間)関係からの切断・喪失」ということである。

順を追って説明していこう。

まず最初の、「近親の人を失う」というのは、死別であれ、離別であれ、そこでの悲しみは、本当は、具体的な「人」の喪失そのものによってというよりも、そこにおける「関係」の喪失・切断によって、より深い悲しみ、すなわち、孤独の感情にとらわれるのである。

もう少し分かりやすく説明すれば、そこでの「関係」の喪失・切断というのは、肉親の死であれ、失恋であれ、「大切に思っていた人」の喪失であると同時に、それは、「大切に思われていた」、「必要とされていた」、「頼られていた」自分自身の喪失なのである。

「関係の喪失」というのは、そういう意味である。

「大切に思っていた人」というのは、ある意味では、自己の一部となっていた人、と言うことも、また、できよう。すなわち、死別・離別というのは、二重の意味で、自己の一部(もしくは、ほとんど)を失う、あるいは、奪われることである。

この場合の「喪失」というのは、離別の場合も含めて、取り返しのきかない、絶対的な喪失という意味において、「死」に等しい。

すなわち、死別・離別というのは、残された者自身の部分的な(ある場合は、ほとんど全体的な)「死」を意味するのである。

このような深い孤独から立ち直るのには、結局、「まだ死んでいない残りの部分」に頼って、新たな人間関係を作り上げていくしかないのだが、このことについては、後に触れることにする。

6、関係からの疎外

二番目の、「ひとりぼっち」というのは、誰からも期待されない、相手にされない(と感じる)状態のことである。すなわち、全ての人間関係から切り離されて、孤立している(と感じる)状態のことである。
世間では、「孤独」と「孤立」とを、ほとんど同じもののように考えている人も多いが、根本的には、この二つは別のものである。

すでに述べたように、孤独とは、死、すなわち、生の有限性を自覚したところから起こる感情である。一方、人間関係から孤立した状態というのは、いわば、「生」(生きていること)を実感できない、すなわち、抽象的な意味において、死んでいるのに等しい状態、と言えるのではないだろうか。

したがって、孤独というのは、最終的には、そこから“逃れる”ことのできないものであるのに比して、孤立というのは、努力次第で“解決”可能なものなのである。

三番目の、「死の訪れを自覚する時」というのは、病気や老いなどによって、それまでの、「いつか訪れる死」というものに対するただ漠然とした恐れに取って代わって、目前に迫った死を確定的なものとして待ち受けなければならない日々のことを指す。

すでに述べたように、死というのは、有から無への絶対的な移行、すなわち、自己の消滅である。さらに、この場合、「死の訪れを自覚する」というのは、みんなから切り離されて自分だけが死の側に追いやられるという「孤立」状態を自覚するということでもある。人はここにおいて、最も深い孤独に襲われることになる。

しかしながら、このような状況において選択肢は、結局、次の二つしかない。諦念して、死を受容するか、それとも、生の有限性(有から無への移行)を観念的に拒否する、すなわち、死後の世界を信じるかの、いずれかである。

7、孤独といかに付き合うか

ところで、孤独との付き合い方は、大きく分けて、二つある。

一つは、人間関係の中で孤独を“まぎらせる”という方法であり、いま一つは、孤独と真正面から向き合う、という方法である。

91年2月に、東京で「単身けん」の設立記念シンポジウムが開かれ、パネラーの一人として参加したが、その時、フロアの20代後半の男性が、「夜遅く、真っ暗な部屋に直接帰っていくのは寂しいので、帰りがけに行きつけのコンビニエンスストアに立ち寄って、人の温もりを身にまとってから帰るようにしている」というような発言をした。

寂しさをまぎらせるという意味では、こういう方法も、たしかに一定の効果はある。私だって、20代の中頃のかなり長い間、行きつけの飲み屋に入り浸りだった時期がある。当時、自分自身の意識の中には「孤独をまぎらす」というような気はあまりなかったが、今から考えると、明らかに「人恋し」かったのだろうと思う。2〜3年も続いただろうか。

ところが、ある時期から、その飲み屋に足を運ぶ回数が少しずつ減っていく。理由はいろいろあるが、その飲み屋での人間関係が、結局は、上辺だけのものでしかないことに気づいたことも、その理由の一つである。つまり、その店の客からも、店の人からも、誰からも、本当の意味では、何も期待されていないことが分かってきたからである。

「人間関係の中で孤独をまぎらせる」ためには、実は、次の条件が必要なのである。すなわち、他者によって自分の「生」を肯定されること。もっと分かりやすく言えば、他者から、自分の存在を必要とされるということが。

この会の92年の10月例会で話題になった、掛札悠子さんの『「レスビアン」である、ということ』という本の中の、「そもそも、人間はある『特別な関係』を本来的に必要とする存在なのだろうか?」という文章は、こういった文脈の中で理解されるべきものだと、私は思う。

人が、恋人を求め、家族を作り、あるいは、サークル活動や社会的な活動に参加するのも、こういった目的があるからである。

もちろん、この場合、「お互いに必要とされあう関係」が望ましい、と考える人もいるが、これが大変に難しい。わずらわしいと考える人もいるだろう。

そのように考える人の場合は、相手は、人ではなくて動物や、ある場合には植物だってかまわない。ペットや盆栽などでも、充分に自分の存在を相手から必要とされるのだから。

8、死=生を受容する、ということ

しかしながら孤独というものが、もともと、死、すなわち、生の有限性を自覚するところから発生する感情であるとするなら、「人間関係の中で孤独をまぎらせる」という方法・方向性とは別に、死そのものを真正面から見据え、それと向き合うという作業がどうしても必要になってくる。

結論を急ぐと、人は死を乗り越えることはできない。最終的には、それを受容するしかない。

死を受容するということは、「人はいずれ死ぬものである」ということを受容することである。 100%それを受容するということは、とうていできないにしても、結局は受容するしかない。人は人生の中で、何度か死の恐怖に取りつかれながら、次第に、それに慣らされ、仕方ないものとして受け入れていく。

受容とは、つまり、慣れることであり、諦めることであるのかも知れない。孤独にしても、失恋にしても、しかり。最初は「死ぬほど」の思いだったものが、徐々に慣らされていく。上手な耐え方・付き合い方を身につけていく、と言い換えてもよい。

そして、「死を受容する」とは、逆説的に言えば、生を受容・肯定することでもある。「いずれ死ぬ命」と諦めて、「せめて、生きている間こそは」と、生の充実に力を注ぐ。「死ぬ気になって」とか、「生きているうちが花」などという文句は、このあたりのことを物語っている。

また、これとは別に、生と死とをひとつながりの自然な流れとして受容する考え方もある。最初に触れた「息子」の父親や兵庫県のおばあさんの言葉は、そのような意味合いで捉えれば、すんなりと理解することができるのではないだろうか。
              (「確信犯?シングルの会」会報『シングルズ・ネット』(1993年1月発行)所収)

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シングル トピックス

これまでに行ってきたシングル関連講座

シングルをめぐる論稿
「ひとり住まいの健康管理〜健康で長生きするための体と心の健康法〜」(2000.2)(2.75MB)
「孤独死と「家族幻想」」(「神戸新聞」1997年12月26日)
「仮設の“孤独死”と家族幻想」(1997.6)
「シングルと孤独をめぐる断章」(1993年/「シングルズ・ネット」vol.14)
「結婚するには忙しすぎる 沢山したいことがあって」(1989.9/「ちゃんりんこ」創刊号 インタビュー「僕の私のシングルライフ」)(3.31MB)
「ちゃりんこ」創刊号 表紙(2.09MB)
「離婚もまた一つの選択」(「それいゆ」1886年)(2.89MB)
「とかく世間というものは――「世間」考現学」(「それいゆ」1884.12)(3.60MB)
「“親離れ”“子離れ”をめぐる断章」(「ひとり歩きの会」1884.7)(7.20MB)
「なんで結婚せえへんの? ―37才・男・ひとり暮らしの損益計算書―」(「ひとり歩きの会」82年)(6.92MB)
関連記事:「結婚・非婚・自由な発想で シングルの立場から」(「家族 明日に向けて」@ 読売新聞 1990年12月26日)

関連記事:読売新聞/YOMIURI ONLINE/ニュースクリップ/用語解説/[あの言葉戦後50年] 昭和40年代独身貴族とは 1995年8月3日

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単身けん(1990年設立)

確信犯?シングルの会(1990年設立)
関連記事:「独身人生 仲間とスクラム 「自由と自立」目標にサークル結成」(読売新聞 1990年8月3日)
関連記事:「シングルズ・ネット 個人の自立求める会が発刊 購読会員を募集中」(朝日新聞 1990年10月5日 東京版)

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