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次はあなたの街かもしれない――兵庫県南部地震報告(1995.1.20)


戦後最大級の被害をもたらした、マグニチュード7.2、震度6の烈震を我が事として体験してから4日目である。

からくも家屋の倒壊をまぬがれ、表面上はほぼ平静な生活を取り戻しつつあるが、まだ日に何度かは震度3の余震が体を揺るがすので、思考を集中させるのに苦労する。

ともかく、何が起こり、そして、いまどのように暮らしているかを報告することによって、今後あなたの街にも起こるかもしれない災害に対する心構えの一助となれば幸いである。

                    ◇                    ◇

前日早く寝たので、もうそろそろ起きなければと、布団のなかでうつらうつらしていた時だった。部屋が揺れだしたのに気づいて目を覚ましたが、その尋常でない揺れの大きさにすぐに身を起こした。

最初は本棚を押さえようと考えたが、揺れはさらに激しくなり、それどころではないことが分かり、まずは身の安全確保をと、隣の台所との境の柱にしがみつき、そこで目についたガスの元栓を締めなくてはと気づく。

這うようにしてガスの元栓のところにたどり着いて栓を締め、そして、もうそのころには激しい揺れは収まっていたのだが、部屋に戻ろうとしたら、目の前に整理ダンスが倒れ込んでいて、大変なことが起こったらしいことに気づくことになる。

「これでもう終わりかもしれない」という死への恐怖感は不思議になかった。と言い切れば嘘になるかもしれないが、あらゆる思考を振り切るくらいに、それほど激しく前後左右に体を揺り動かされ、ともかく「どうしよう。どうしたらいいのか」と思いあぐねているうちに時間が経ってしまっていた。

ただ、この段階では、電気はすでに切れており、真っ暗闇のなかだったので、事態が正確に飲み込めていたわけではない。

ともかく、明かりをと考えて、懐中電灯の用意はなかったが過去の台風シーズンに買っておいた蝋燭を探そうとしたが、二重三重に倒れ込んだ本棚の下になっているらしく、暗がりのなかではとうてい探しようがない。

いつも枕元に置いていた携帯ラジオも、同様に本の山のなかに埋もれてしまっているらしく、行方知れずである。

そうこうするうちに、隣近所から、室内を照らす懐中電灯らしい明かりや、割れ物を片づける物音が漏れ来るようになってくる。

だが、暗がりのなかで下手に動くと割れ物で足を切ったり、倒壊物に当たって思わぬ怪我をすると考えて、ともかく夜明けを待つことにした。

寒さをしのぐために、手近の衣類をたぐり寄せて腰に巻きつけて時を過ごしているうちに、腹が空いているのに気づき、買い置きのパンがあることを思い出して、それを齧りながら夜明けの訪れるのを待った。

周囲が明るくなるのを待ちかねて部屋のなかを見渡すと、想像以上の散乱振りで、どこからどう手を着けていいやら、ただただもう呆然とするばかりであった。

それはともかく、いったい何が起こったのかが知りたくて外の様子をうかがおうと外へ出ようと思ったのだか、玄関口に続くガラス戸の前は倒れ込んできた本棚と整理だんすが邪魔をして通行不能。

1時間以上かかって障害物を取り除いて外に出て、坂道を南に下るにしたがって、被害は、これでもかと言わんばかりにひどくなる一方で、次第に言葉をなくしていった。

木造家屋の多くは倒壊し、商店街の建物も軒並みに破壊されて、大きな被害を受けている。コンクリート製の近代的ビルさえもが壊れたり、傾いたりしていた。

ところで、私が住む、築24年の木造文化住宅の被害はといえば、1階部分の角にあたる柱が1本折れ、根腐れを起こしていた他の柱も激しい縦揺れのために沈下していた。

だが、2階の通路部分を支える鉄柱の間隔が狭かったことなどが幸いしてか、建物は大きくは傾かずに、2階部分はそのままの外形を保っている。

これはまあ、いわば奇跡みたいなもので、これが2ブロックも南側に建っていたのであれば、ひとたまりもなかったのであろう。死と生とを分けるのは、ほんの偶然でしかない。

今後どうなるかは、次に訪れるという“最大余震”の規模次第だが、たとえこれ以上傾いても、隣の建物との隙間が狭いので、それにもたれ掛かって何とか持ちこたえるだろうと高をくくって、2階に住む4世帯全員がしぶとく住み続けている。

ところで、いま、どんな暮らしをしているかというと、2日目の夜中にこの一帯だけが、これも奇蹟的に、電気がいち早く復旧したので、ご飯を炊くことができるという幸運に恵まれた。ご飯さえ炊ければ、ともかく最低限の食生活は保てることになる。

とくにわが家は玄米食なので、玄米に黒胡麻を振りかけ、それに梅干しを齧れば、他に何もなくても、1か月でも2か月でも生活していくことが可能である。

さっそく、被害を受けていない近所の米屋で、1か月分の玄米、3キロを買い求めた。胡麻と梅干しは充分にストックがある。

つぎに水だが、水道が出るようになるまでには、まだひと月半かかるということである。そこで、唯一の頼みは各避難所で行われる給水だが、これがまったく当てにならない。

というのも、神戸市内だけで24万人から27万人の被災者がいて、避難所も500か所近くにのぼっているので、そこまで水を送る給水タンクや運転手が足りなくて、全部の避難所を回りきれないわけである。

そこで、どうしているかというと、私は普段から風呂の水を張りっぱなしにしているので、縦揺れで3分の1ほどが飛び出してしまっていたとはいえ、顔を洗ったり、トイレの水を流したりという生活水には当分困ることはない。

ご飯を炊く水だって、いざとなれば、それを使ってもいい。飲み水だって、その水を炊飯器で炊けばどうにかなる。

戦争中は泥水をすすったという我が先人の経験を思えば大したことはないし、そんな昔にまで逆上らなくても、現に今、世界の各地でそのような生活を強いられている人たちはゴマンといるはずである。

で、飲み水に関して、実際はどうしたかというと、私は、飲み水や料理に使う水は、普段から水道水を24時間以上汲み置いたものを使うようにしていたので、1000tのインスタントコーヒーの空き瓶に5本分、常に常備していたのである。

残念なことに、そのうちの4本までは割れてしまっていたが、奇蹟的に1本が割れずに残っていたので、最初の2日間はなめるようにしてそれを飲んだ。

それが尽きる前にと、3日目に、ついに避難所を訪ねたが、やはり、給水車がいつ訪れるかは定かでないという。

いつ来るとも知れない給水車をただただ座して待つ気にもならず、商店街の現状視察を兼ねて街の探索に出かけると、ところどころにバケツを持った人の行列ができている。

何かと思ってよくよく見ると、どうも水道管の継ぎ目が外れたところから、水が溢れているらしい。

後になってわかったことだが、頻発する火災に業を煮やした市が、家庭への確実な送水体制の整わぬまま、試験通水を口実として送水を始め、その結果、街の至る所で、壊れた水道管から水が湧きだしたわけである。

理由はともあれ、そこが補修されるまで、水はふんだんに手に入れることができるわけである。さっそく家に帰って、バッグに洋酒の空き瓶6本を入れて、もらい水をしてきた。これだけあれば、1か月は大丈夫である。あとはガスだが、水道水もガスも、1か月 半待てば全面復旧するということである。それまでは、じたばたしても始まらない。

テレビなどで、周辺の地域に住む人達が、身内の人達に車で水や食料を運んでいる姿を見かけるが、避難所での暮らしを余儀なくされている人だけでも、30万人を越えると言われているのである。

身内の人を心配する気持ちが分からないわけではないが、そのようにして一人一人が個人レベルで動けば、道路に車が溢れて交通が渋滞するのは目に見えている。

そして、その結果、せっかく全国から続々届けられている援助物資が各避難所に届くのを、妨げていることになる。

今大切なことは、個人レベルで勝手に行動しないことである。そして、何が必要で、何が妨げになるかということを、冷静に考えることである。

さて、最後になるが、今回の体験から得た“非常時への備え”についてのアドバイスを二、三するとすれば、まず一つは、緊急時に備えて、懐中電灯と携帯ラジオ、それに乾電池を各部屋ごとに常備しておくことである。

次に、水、乾パン、缶詰類、それにチョコレートやナッツ類など、高カロリーで比較的保存性の高いものを、1か月分くらい常にストックしておくことである。

さらに言えば、普段の食卓にも、保存性の高い食品、たとえば胡麻、梅干し、佃煮などを、いろいろ多量に取り揃えておくことである。

それと、空中に張りめぐらされている電線は、地中に埋設されている水道管やガス管に比べて、故障箇所の発見が比較的容易なので、水道やガスよりも電気のほうが復旧が早いはずなので、ホットプレートなど、電熱調理器具をさまざまに常備していると何かと便利であろう。

ともかく、都会では、いったん大地震が起きると、1か月半前後、水とガスとがストップするということを、常に頭の片隅に置いておかないと、もう住めないことが分かったわけである。

そして、あとは、そういう事態になっても長期間耐えていけるだけのたくましさ、つまり、普段から“窮乏生活”に慣れていることが必要かもしれない。

                    ◇                    ◇

今はともかく、普通10日以内に訪れるという“最大余震”がいつ、どの程度の規模で襲ってくるのかだけが気掛かりである。

玄関のガラス戸の鍵は開けたままにし、さらに玄関口の手前の戸は閉めずに、寝る時も、ズボンに靴下姿のままで、さらに布団の上にはマフラー、時計、それに、財布、貯金通帳をポケットに入れたコートをかぶせて、まさかの時には、それだけを引っ掴んで、すぐにでも逃げだせるように態勢を整えて床に就いている。

震度2程度ではもう驚かないが、やはり、少し揺れを感じるたびにビクッと目を覚まし、震度3だと、ともかくコートを引っ掴んで柱にしがみついて外に逃げだすタイミングをうかがっている。

そのようにして、もし幸運に“最大余震”をきりぬけたとしても、そのあとに長く続く長期戦が待ち受けている。

西宮から三宮間の鉄道が復旧するまでにあと3か月はかかるという。今、ここは、陸の孤島と化している。商業施設もほぼ壊滅状態で、いつになれば復旧するのかも分からないが、ここは腹を据えて、未曾有の体験を噛みしめていくしかない。
                                                 1995年1月20日記

                    (「京都新聞」の依頼に応じて被災地から書き送った原稿の元原稿)

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阪神・淡路大震災(1995年5月1日、「屋台村通信」創刊号、7月1日「屋台村通信」第2号)

これまでに行ってきた震災・防災/阪神・淡路大震災関連講座

「阪神・淡路大震災記録写真集―神戸市灘区水道筋95年1月17日」(8.70MB)

阪神・淡路大震災をめぐる吉田清彦論稿集
「次はあなたの街かもしれない−兵庫県南部地震報告」(1995.1.20)
「懐中電灯とラジオ 各部屋に常備を 吉田清彦さん地震体験記 ガスの元栓まず締めて 保存食の必要性を痛感」(「京都新聞」1995年1月24日)
「もっと多くの命が救えたのでは =「被災者」側からみた震災報道=」(1995.2.3)(「月刊マスコミ市民」316(1995年3月))(6.32MB)
「月刊マスコミ市民」316(1995年3月)表紙&目次(1.97MB)
「もっと多くの人を救えたかもしれない―「被災者」側から見た震災報道」(1995.2.3)(「屋台村通信」創刊号 95.5)(8.38MB)
「震災の街から」
「仮設の“孤独死”と家族幻想」(1997.5)
「仮設の“孤独死”と家族幻想」(ドーンセンター情報誌「DAWN(ドーン)」11 1997.6)(1.78MB)
「孤独死と「家族幻想」」(「神戸新聞」1997年12月26日)

「阪神大震災ボランティアノート わたしの見た「ちびくろ救援ぐるうぷ」」(南野容子)(1995.7.3)(「屋台村通信」第3号 95.8)(4.81MB)

関連記事:「一人暮らしの防災対策…備蓄・隣人の支援で明暗」(「読売新聞」2010年1月16日)
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